-中国語あれこれ
--鄭老師の漫談--
(85) 中国語 読解レッスン
古人の知恵に学ぶ
【中国のことわざ・格言・金言 (5)】

《 森羅万象・世事諸相の意味するものは? 》
21行到水穷处,坐看云起时/行到水窮處,坐看雲起時

(沿着溪流信步漫游的途中,)走到没有水的地方,(索性)坐下来,观看(山顶上)涌起的云朵(千变万化)。

→( 意訳プラス超訳 )『山間の渓流に沿って登って行く途中、渓水が涸れた場所に行き着いた。どうやらここが水源地らしい、でもなぜ水が涸れてしまったのだろうか、この先、渓流は大丈夫なのか、と思いめぐらす。山道はそこで行き止まりなので、ともかく腰を下ろして一休み。ふと仰ぎ見ると、山頂には千切れ雲がモクモクと湧き上がっていた。躍動して刻々と姿を変える雲の舞いを眺めながら、思いを馳せる時を楽しもう』。

【解説】
原文はなにやら禅問答とも読めるちょっと不思議な詩句だが、これは唐代・王維Wang-Weiの詩の一節です。「水が尽きる所に行き着いたら、そこに座って雲が湧き起こる情景を観る時なのです」と直訳できる。しかし、これだけでは言語明瞭にして意味不明だ。上記の日本語訳文の続きとして、さらに解説を交えると、「広大な青空に抱かれた山頂の雲景色をじっと眺めていると、人の気持ちはおのずと明るくゆったりしてくる。私の視線も想像も、水枯れ地点から離れて大空に注がれ、自由闊達に広がって、天人合一の境地に入って行く——あの山上で躍動する千切れ雲の群れは次々と上空に舞い上がり、しまいに雨雲となって雨を降らせるのだろう。その雨水によって水源地はよく潤い、岩間からは泉水が湧き出し、渓谷の水流は再び復活するに違いない—―なにも渓流の水枯れを見て、悲観したり、落胆したりすることはないのさ」と詩人は盛んに想像を逞しくして悦に入ったに違いない。
加油…!
さらに、これを人生に重ね合わせて、「人は窮地に陥っても、どこかに起死回生の道はあるものだ。だから絶望したり、諦めたりすることはない。気を取り直してじっくり自身の周囲を考察し、窮地を取り巻く大局を掴めば、活路を切り開く手掛かりが見付かるものだ」との寓意がこの詩に込められている、とも読めるようだ。

ただ、ここまで拡大解釈すると、これはもはや「超訳」の域に入る話になってくる。わずか2行10文字のごく短い詩句が、一定の条件・情況の下で、300字を超える解説風の日本語訳に膨れ上がっている。例えば、句中の“
”の意味は、単に「(山中の)地べたに座る」のみならず、「腰を落ち着けてじっくり行う」と読める。それは、個々の漢字・漢語の情報量の豊かさと表現力の奥深さを物語るものといえましょう。

【コメント】

文脈の把握は大事
よく耳にする話だが、中国語の意味・内包は話者・作者の置かれた状況・場面・情景・背景、その心境・意思・意図など文脈によるところが大きい、と。確かに、中国語の文章を読解する場合、行間に隠された論理関係、語と語の意味関係を探り、把握するセンスと能力が求められるわけで、詩句においてはなおさら文脈の把握が大事になる。現代中国語会話の習得においても、対話場面をめぐる状況把握、そして情況判断能力が重要な要素である、と授業で私はよく強調しているが、漢詩にしろ、会話にしろ、基本の道理はみな共通しているはずです。

詩聖・詩仙・詩佛
さて、王維は熱心な仏教禅宗の信者であり、仕官しながらも、山紫水明の緑豊かな山麓の別荘での隠逸な暮らしを好み、それをよく楽しんだことで知られる。彼にとって、「山・川・湖・泉・水・森・渓流・雲・雨……」はみな暮らしの友といえる存在だ。その一方で、彼の信奉する「禅」といえば、精神を集中して人生の煩悩を忘れ、無我の境地に入ることだが、俗人には理解しがたい禅の思想・思考方式が、時として彼の詩の中にも反映され、それがまた彼の詩風の特色を成しているのでしょう。詩仙李白・詩聖杜甫とともに、詩佛と並び称せられるゆえんである。

類語で連想を誘う
句中の“
水穷处”は成語の“山穷水尽”を連想させ、“云起”は成語の“风起云涌”の連想を誘う。つまり、それぞれ類語の意味する“山和水都到了尽头;比喻走投无路,陷入绝境”と、“大风刮起,乌云涌集;比喻事物迅速发展,声势浩大”を巧みに借用して詩境に溶け込ませている。つまり、暗喩の手法を使って、「身が絶体絶命のピンチに陥った時は、慌てず騒がず、落ち着いてじっくりと構え、大所高所から形勢逆転の手掛かり、チャンスの胎動を見て取るべきだ。そうすれば絶望を希望に変えることができるものだ」と読み解ける。

安禄山の乱・反逆罪の身から逆転昇進
王維は西暦755年「安禄山の乱」で反乱軍に捕らえられ、意に反して協力を強制させられた。乱の平定後、反逆罪に問われたが、これはすでに晩年を迎えた彼にとって、人生最大のピンチであった。おそらくその時の心境が「
行到水穷处, 坐看云起时」なのかもしれない。この句に謳われているように、事実、彼は親族の嘆願や自身の詩才によって死罪を免れ、降職されながらも放免を勝ち取った。その後昇進し、最後の官職は尚書右丞(現在の副大臣クラス)であった。見事に大ピンチを大きなチャンスに変えることに成功したわけだ。

こうしてみると、古代から伝わる漢詩を読解するには、原文の字面には表現されないさまざまな関連状況が内に秘められている。したがって、それらに基づく推理、推量を加えた補足・補強作業が必要不可欠となるわけだ。同時に、後世の読者にとっては、手掛かりを探しながら、作者の詩想・詩情・詩趣をあれこれと想像する楽しみがある。そうした「想像空間」は、一種の「創造空間」であるともいえよう。この点が、数千年の時空を超えて今なお色褪せない漢詩の魅力なのかもしれない。

出典;唐代・王維《終南別業》五言律詩/全文は次の通り;
中岁颇好道, 晚家南山陲。兴来每独往, 胜事空自知。
『行到水穷处,坐看云起时』。偶然值林叟, 谈笑无还期。


22赠人玫瑰,手留余香。赠人玫瑰之手,经久犹有余香
→贈るバラ 余香漂う わが手にも
わが手にも…
如果把美丽的鲜花赠送给别人,那么,赠花人自然也会收获到一缕芳香。从物质上来说,它不但方便了别人,而且也给自己带来了方便。从精神层面上来说,帮助别人,别人就会感谢你,而你自己也会感到快乐。我们在付出的同时,也收获到一份助人后的快乐和幸福。

其实善待他人也等于善待自己。当你帮助别人获得成功之后,自然在助人为乐之余还会得到某种回报。虽说送人一束玫瑰花是一件很平凡微小的事情,但它带来的温馨也会在赠花人和受花人的心底慢慢升腾、缭绕、笼罩;它带来的一股暖流也会潺潺地流入并滋润俩人的心田。不管是赠花还是帮助别人排忧解难,如果我们在日常生活中都能这样做,那么这种互动交流就会产生越来越大的社会正能量。而这种社会正能量的凝聚能够促成社会正气的壮大和仁爱力量的加强。这样,肯定会有利于加强人民团结互助,有利于推进文明和谐社会的建设和发展。

当今世界,自私的功利思想过浓,造成社会正能量可惜可悲的消耗。我们应当相信“赠人玫瑰,手留余香”,大力提倡发扬奉献精神。(出自印度古谚)


( 2020年11月18日 鄭 青榮 )
【次回第86話に続く】