-中国語あれこれ
--鄭老師の漫談--
(83) 中国語 読解レッスン
古人の知恵に学ぶ
【中国のことわざ・格言・金言 (3)】

《 森羅万象・世事諸相の意味するものは? 》
13 丈八的灯台 照远不照近

高高的灯台上的灯光可以照亮很远的地方,却照不到灯台下面最近的地方。
→高い灯台の灯りは遠い所を明るく照らせるのに、間近の灯台の下は照らせない。

意思是说“灯下黑”,比喻人有时候只会居高临下地挑别人的毛病,却唯独看不清自己脚下,发现不了自身的问题。
→言わんとするのは、灯台下暗し。人は時に上から目線で他人のあら捜しをするくせに、逆に自分の足元がよく見えず、自身の問題に気が付かないものだ、との譬え

★語注:
居高临下;他人より有利な地位・地形に身を置く ●挑毛病;あら捜しする
唯独;〔副詞〕ただ・単に

【コメント】
岬の「灯台」を中国語は“
灯塔”という。中国語の“灯台”、ここではランプスタンドの台座の意味。類義語「燭台/蝋燭立て」。主観的に事物を見がちな人間の弱点を指摘している警句。
日本語の辞書によれば、類似表現として「提灯持ち、足下暗し」、「近くて見えぬは睫毛」がある。

14纸里包不住火
USO800
→紙包みの中に火炎を封じ込むことはできない。

比喻谎言掩盖不了事实真相,骗局迟早要被揭穿。

→嘘で事実や真相を覆い隠すことはできない。ペテンは早晩あばかれるものだ、との譬え。


★語注:
谎言谎话/假话 ●掩盖隐瞒/隐藏 ●骗局骗人的圈套 ●揭穿揭破/揭露,使掩盖着的真相显露出来
相关成语及词组有
真相大白”/“ 水落石出”/“弥天大谎”/“瞒天过海”/“露马脚

【コメント】
ウソは所詮あばかれるものだ。本来ウソはいわば紙のように燃え易く、脆弱なもの。厳然たる事実や歴然たる真相の「炎」に焼かれて、ウソやデマはみな黒い灰と化す結果に終わる。
「嘘も百回言えば本当になる(※
谎言重复百遍就会成为真话)」という言い方もある。しかし、その「本当」とはやはり「ウソ」に過ぎず、ただ一部の人がそれに惑わされて、「本当」だと信じ込まされているに過ぎない。早かれ晩かれ、世の智者・賢者やデマの被害者らによって暴かれ、敗れ去る運命を辿るものだ。
これに関連して、現代社会で問題になるのが、国家権力によるウソ・でっち上げや隠ぺい行為。例えば、役所の公文書の改ざん・隠ぺいによって、重要な真相や事実が闇に葬られるのではないかというケース。思うに、重大な事案であれば、民間・マスコミや議会での追及が続き、内部告発・関係者の告白や、与野党の政権交代などによって、しまいにウソ・証拠隠滅などの違法行為が暴かれ、事の真相が国民の前に明らかになるに違いない。また民間において、事件発生から半世紀も経ってようやく無罪判決が確定した冤罪事件も少なくない。まさに“
纸里包不住火”が真理であることを物語っている。

15春江水暖鸭先知

春回大地,江水就会日渐变暖,而最先察觉到大自然这一季节变化的正是在江水中游戏的鸭子。

→春の訪れとともに、川の水は日を追って温むが、大自然のこの季節の変わり目に真っ先に気付くのは、よく水に戯れるアヒルたちである。

也就是说:不管暑夏寒冬,鸭子都常在水中游戏,与江水为伴,所以它们能最先察觉到初春江水的回暖。
→つまり、暑い夏や寒い冬に拘わらず、アヒルはいつも川の水を友とし、そこで戯れるので、真っ先に水の温みから春の気配を察知できる、ともいえる。
※出典;北宋 蘇軾

【コメント】
冬の終わりのまだ寒さの残る川面で嬉々として戯れるアヒルたち。その様子から、アヒルはおそらく川の水のわずかな温みを体感し、春の気配をすでに察知しているに違いない、と詩人は鋭く観察している。もしも川辺のアヒルが水はまだ冷たいからと入水を躊躇するならば、春の訪れを体感することはできないであろう。この格言は現場に身を置いてこそ事実や真相を掴むことができる、本当の知識は実践の中から生まれるもの、との寓意が含まれているようだ。

16山僧不解数甲子 一叶落知天下秋 / 一叶落知天下秋/ 一叶知秋

虽然在深山里的寺院生活的和尚不了解岁月按历法的推移,但从院内树林一片叶子的凋落,就知道秋天的到来。
→人里離れた山奥の寺に住む僧侶は俗世の暦に無頓着だ。彼らは暦からではなく、境内の樹木から散り始めた落ち葉を見て秋の到来を知るわけである。/一葉散って天下の秋を知る。

比喻通过个别的细微的迹象,可以看到整体形势的发展趋向与结果。
→個別の微かな形跡から情勢全体の発展動向と結果を見て取ることができることの譬え。

★語注:
不解不了解 ●甲子古人用十天干和十二地支相配,轮一遍共得六十组,叫一个甲子。周而复始,先是用来纪日,后一般用来纪年。
※出典;【宋】唐庚《文录》

【コメント】
世俗の生活を捨て、人里離れた山寺に暮らす僧は、俗世の暦も忘れて仏道を修行する日々を送る。出家した人々には山寺を取り囲む自然環境に親しみ、静寂な景観を愛でる楽しみがある。そうした日常生活から、自然に対する観察眼が養われ、風の音、小鳥の囀りや木の葉のざわめきなど周囲の微かな動静や変化にも敏感に反応する。それゆえ、夏の終わりに目にした散り落ちる一枚の木の葉から、秋の到来を感知することができるわけだ。こうした「一枚の落ち葉」は微かな手がかりに過ぎないが、長く山寺に暮らす僧の目には、見逃せない証拠と映る。経験則に基づき、これを季節交代の始まりと判断する。こうして「一葉散って天下の秋を知る」わけである。
なお、微かな手掛かりと言えば、成語“
蛛丝马迹”も意味的に類似しているが、この「蜘蛛の糸と馬の足跡」は多くは犯罪など悪事の証拠となる手掛かりを指す点が異なる。

17疾风知劲草 路遥识马力
♪
刮过迅猛的风之后才能知道一棵草是不是坚韧而不倒,路途遥远才能识别马力的大小。

→草が強靭であるかどうかは、激しい強風に吹かれたあとに分かり、馬の走力の大小は遠乗りするとわかる。

风势迅猛才能考验野草是不是坚韧,风势弱小就难以看出野草是否坚强。
→野草の強さは、激しい突風に曝されて分かるもの、弱い風ではその強さは区別し難い。


路远才能考察是骏马还是驽马,路近了就难以考察马的力气和耐力的大小。
→遠乗りしてはじめて、駿馬かどうかわかるもの、短距離ではその速力・持久力はなかなか掴めない。

★語注:
驽马跑不快的马

【コメント】
野原に生える草はどれも同じように見えるが、自然界でそれらの違いを知っているのは疾風だと、古人は看破した。疾風が唸りをあげて野原を吹き渡った後、哀れにも弱い草はみななぎ倒され、強い草だけが持ちこたえて、元気な姿で直立している。馬の良し悪しも外見だけでは判断を付けられない。遠乗りしてみて、違いが分かる。へたばるようでは、とても駿馬とはいえないわけだ。厳しい試練を与えて、はじめて事物の真価が見て取れるとの譬え(→
只有经过严峻的考验之后才能看清事物的本质和真正的价值)。類似表現に“日久见人心”(→与人相处久了才能看出一个人的真心和品德;長く付き合うと、人の本心や品性がわかる)。

( 2020年10月16日 鄭 青榮 )
【次回第84話に続く】