-中国語あれこれ
--鄭老師の漫談--
(57) 中国語会話 中級プレミアム・レッスン
【誇張の表現 ②】
他就是化成灰,我也能认出来。

「遺骨を見ただけで、それが彼だとわかります」
★「天・地・人/天人合一」の思考パターン——その光と影
前話に続いて、今度はもっと日常卑近な誇張表現を取り上げます。まずは例文をご覧ください。

★五感に訴えるタイプ
1.请你一百个放心。
2.你借给我一百个胆儿,我也不敢。
3.你现在脸皮比鞋底还厚。
4.我想破脑袋也想不明白。
5.要是我看错了,我眼睛生疮流脓。
6.他拉二胡的声音比杀鸡还难听。
7.我吓得快吓死了,哪里还顾得上看他的面孔啊!
8.他就是化成灰,我也能认出来。
9.这件事我守口如瓶,就是烂在肚子里,我也不会告诉别人。
疮=瘡  脓=膿  杀=殺  鸡=鶏  难=難
听=聴  吓=嚇  顾=顧  认=認  烂=爛


前掲の各例文のキーワードを分析すると、人体に関連する“
脸皮”、“面孔”、“脑袋”、“眼睛”、“肚子里”、“”、“(骨)灰”、及び視聴覚に関連する“”、“认出来”、“鞋底厚”、“生疮流脓”、“”、“声音难听”、“一百个”、さらには心理状態に関連する“放心”、“敢/胆儿”、“吓死”、“顾得上”、“想不明白”などに類別できます。これらの具体性に富む用語から組み立てられた例文は、いずれも聞く人に生き生きとしたイメージを呼び起こす効能を具えており、まるでその場にいるような気持や、その情景に立ち会っているような気にさせます。

★語注;
胆 dǎn;【名詞】胆嚢/度胸 ●生疮流脓 shēng-chuāng liú-nóng;【慣用句】腫れ物が出来て、化膿する/病が重症化する●顾得上 gù de shàng;【動詞句】構っていられる
化成 huà chéng;【動詞句】…と化す/“成”は結果補語 ●rèn;【動詞】見分ける
守口如瓶 shǒu-kǒu rú-píng;【成語】瓶の口を密封したように固く口を閉じて何も言わない
烂 làn;【動詞】腐る/駄目になる

★解説
●例文1“
请你一百个放心。”は「あなたは百倍も安心してよい(あなたは大船に乗ったつもりでいなさい)」
●例文2“
你借给我一百个胆儿,我也不敢。”は、「肝っ玉を百個、貸してくれたとしても、私にはそうする度胸などありません」
●例文3“
你现在脸皮比鞋底还厚呢。”は「いまの君の面の皮の分厚さときたら、厚い靴底でも敵わないくらいですよ」。
例文4“我想破脑袋也想不明白。”は「私は頭が壊れるくらい必死に考えても、そのことは理解できません」
●例文5“
要是我看错了,我眼睛生疮流脓。”は、「もし私の目に狂いがあったら、天罰が下って、目はできもので腫れ上がり、膿汁が流れ出すでしょう(目をこっぴどくやられてしまうでしょう)/(天地神明に誓って私は絶対に見間違えるはずはありません。)」
ワタシノコト ホネデモワカル?●例文6“
他拉二胡的声音比杀鸡还难听。”は、「彼の弾く胡弓はとても耳障りです、潰されるニワトリの悲鳴よりもっとひどい音だもの」。
●例文7“
我吓得快吓死了,哪里还顾得上看他的面孔啊!”は、「(その時)私は死ぬほど驚いたので、相手の顔を見る余裕すらまったくありませんでしたよ(どうして相手の顔を見る余裕などありましょうか【反語文】)」
●例文8“
他就是化成灰,我也能认出来。”は、「遺骨を見ただけで、それが彼だとわかります(たとえ彼が灰になっても、私には区別がつきます)。」・“就是……也…”は(たとえ…でも、それでも…だろう【仮定の譲歩・構文】)
●例文9“
这件事我守口如瓶,就是烂在肚子里,我也不会告诉别人。”は、「この事を私は絶対に口外しません。たとえそれが腹の中で腐っても、他人に話すことはありません(何があっても、必ず腹の中にしっかり収めておきます)」。

●以上の各例文は誇張手法として、それぞれ「百回/百倍」、「肝魂を百個貸す」「(厚い)靴底」、「頭が壊れるくらい」、「目は腫れ上がり、膿汁が流れ出す」、「潰されるニワトリの悲鳴」、「灰と化す」、「(秘密が)腹の中で腐る」などと聞く者の五感を刺激するたとえを引用して、強くアピールしています。

●ちなみに、程よい比喩・誇張が良い表現効果を生み出している例文を一つ挙げておきたい。“
看你满面春风的,你心里的那朵花开到脸上来了。”→「あなたは見るからに嬉しそうですね、まるで心の中の喜びの花が顔に咲いているようですよ」。

★★「天・地・人/天人合一」の思考パターン——その光と影
中国人の哲学思想の中核には、古来伝統の「天・地・人/天人合一」思想があるといわれます——森羅万象は矛盾に満ちており、万事・万物は相生相剋しているが、その中でも「天」と「人」は、最も基本的、中核的な矛盾の一組である。「天」は広大な宇宙たる物質環境を指し、「人」はその物質資源を運用して、天との矛盾を止揚させる知的主体だと捉えられている。「天」と「人」は互いに矛盾対立しつつ、統合されて不可分の一体を成している——これが「天人合一思想」(第30話「味な言い回し・表現」参照」)です。

中国人が、事物の本質に対する洞察や原理原則の把握に優れ、壮大な構想力や長期的・大局的な展望に立った思考方式に長けているとすれば、その根底には天人合一思想があり、それがまた中国文明の発展を支えてきた、といえましょう。

しかしその反面、ともすれば、事物の副次的側面や細部に対して関心不足になるリスクや、現実遊離の観念論に陥るリスクとも隣り合わせであることは否定できないように思われます。

言葉の面でいえば、話を誇張する際に採られる具象的な表現手法——例えば、伝えたいことをショッキングな事例を使って強く印象付けるとか、滑稽さやユーモア性を添えるとか、又は臨場感を盛り上げるなど、話にあれこれと工夫を施すわけですが、思考パターン・生活習慣の違いや、文化的差異が原因で聞く人から抵抗感を持たれたり、誤解されたりするのも避けがたいことです。

たとえば、前掲の例文の中の「(天罰によって)目が潰れる」、「面の皮と靴底の関連性」、「肝魂の貸し借り」、「遺骨の識別」、「秘密事項の腐乱」などの事象や概念に関する表現・言い回しには、中国的特色が見られますが、分かりにくい要素も含まれています。

★「遺骨」の主はどんな人?
では、その中国語表現の特徴・特色を探るために、例文8“
他就是化成灰,我也能认出来。”を取り上げて考察してみましょう。「灰と化した彼」の正体は一体何者でしょうか?( なにか、推理小説みたいですね ) 。それを知るには、まず両者の関係が問題になります。前後の文脈が分からないので、ちょっと手こずりますが、文面から見て、「彼=“他”」のすべてを熟知する、特に昵懇の近親者が「私=“我”」だと推定できます。なので、一見、二人は「無二の親友」同士か、または熱愛中の恋人同士に思えます。
しかし、問題があります。もし無二の親友ならば、中国語は“
情同手足”、“亲如兄弟”、“肝胆相照”、“刎颈之交”、恋人・夫婦ならば“海誓山盟”、“连理枝”、“比翼鸟”……、異性の幼なじみなら“青梅竹马”など、「手足」、「肝胆」、「首、「海」、「山」、「枝」、「鳥」などをたとえに使って表現するのが通常の言い方であって、わざわざ縁起でもない「遺骨」をたとえに持ち出すことは絶えて聞かない。なお、語彙の面で見ると、ここの“化”は“火化”、つまり「火葬に付す」の意である点に注意が必要です。

さて、この例文の次なる疑問点は、合理性に関するものです。厳密に言うと、火葬後の遺骨から身元を割り出すのは、DNA鑑定法でさえも非常に困難だといわれています。高温で焼かれた骨は、組成細胞が高熱によって破壊されてしまうからです。なので、目視による判定などはまったく論外だというわけです。でも、ここでは野暮になるので、そういう検死科学のことは棚上げにしておきましょう。そうすると、意外な結論が一つ浮かび上がってきます。なんと、謎の人物“
”は、“”の天敵ともいうべき人物だったのです。

——この「彼」は逃亡中の容疑者で、「私」は追跡中の警察官という答えです。つまり、敏腕刑事が犯人逮捕の自信を示すセリフの一部とみなせば、つじつまが合います。こんな推理になります——「(犯人の人相特徴はしっかりと私の脳に刻み付けてあります。逃亡中の彼がどんなふうに変装しても、またどんな人ごみに紛れ込んでも、私は必ず彼を見つけ出せます。彼はどう逃げ隠れしても無駄です)。仮に遺骨と化しても、私の目を誤魔化すことはできませんよ」と自慢げに話した、というわけです。ただ、科学至上主義の立場に立つ人は、このような言い方に大いに抵抗を感じるかもしれませんね。

さて、話は推理の方へ脱線してしまいましたので、元の「誇張表現」に戻します。その国や地域の歴史上の物語から生まれた成語・ことわざなども、その物語の内容を知らない聞き手にとっては、取っ付きにくい、理解しづらいなどのハードルが横たわっています。

これらの問題の解決方法はと問われれば、「早道・近道はなく、本道・大道を進むべし」と言うほかはありません。なんと言ってもやはり、国民同士の文化交流・人的交流を着実に拡大し、深化させること、相互理解の増進を図ること、異文明同士の対話を促進すること——こうした地道な努力を積み重ねてゆくことが最も重要ではないかと思います。

ちなみに、日本語にも興味深い誇張表現が少なくありません。例えば「一日千秋」、「鯨飲馬食」、「猫の額」、「ノミの心臓」、「血の雨が降る」などなどですが、それぞれ中国語では“
一日三秋”、“大吃大喝 / 暴饮暴食”、“巴掌大的地方/ 弹丸之地”、“胆小如鼠”、“血流成河”と表現されます。

「一日がまるで千年にも感じられる待ち遠しさ」、「巨大な鯨がビールをガブ飲み…」、「猫の額ほどの狭苦しい庭…」、「顕微鏡を使わないと見えないほど超ミニサイズの心臓…」、「大空から一斉に真っ赤な血の雨が地上に降り注ぐ…」など、いずれも聞き手の想像を強く掻き立てる表現になっています。これらの個別的な例で見る限り、日本語表現における誇張程度は中国語に勝るとも劣らないように思われますが、如何なものでしょうか。

(次回に続く)