-中国語あれこれ
--鄭老師の漫談--
(33)中国語会話 初級=ワンポイント・レッスン
【鋭い変化球?!──反語文=“反问句”の正体は?】
你问我,我问谁呀?/还用你说吗?我傻呀!

 はっきりとした物言いが中国語の特徴だとよく言われますが、その一翼を担うのが反語文=“反问句 fǎn-wèn jù”です。日常会話の中にもよく登場するので、今話で取り上げてみることにしました。ただ反語文というと、初級レベルの方にはやや難しい文法ポイントになるのがやや心配です。そこでなるべくシンプルな例文を挙げて説明してみたいと思います。日本語訳のほうは、先に直訳体、つづいて意訳体となっています。

① 你不也是这样吗? あなただって、そうではありませんか、違いますか?→→あなただって、ぴったりと(それに)当てはまっていますよ。

②还用你说吗?我傻呀! あなたから言われる必要がありましょうか?私って、そんなに頭が鈍いかしら。→→馬鹿でもあるまいし、あなたから言われなくても(そんな事ぐらい)ちゃんとわかっていますよ。(あなたから言われる必要などまったくありませんよ)

③你这不是来添乱吗?あなたのこの行為は、人の邪魔をしに来ているではありませんか、違いますか?→→あなたは明らかに、のこのこやって来て、人の邪魔をしているではありませんか。

 反語文は自分の主張と反対の内容を疑問の形で表現します。では一体、反語文の働きは何か?──文法解説書には、「話し手が自分の考えを強く言うために使われる」とか「語気が強める働きがある」と解説してある。

 そこでまず抑えたい要点は、肯定型の反語文(例文②)は強い否定の意味を示し、否定型の反語文(例文①、③)は逆に強い肯定の意味を表す。文の構造と意味との間に生じるこうした「ねじれ」現象が、強い語気、強い表現効果を生み出しています。野球に例えると、疑問文が「直球」ならば、反語文はさしずめ「鋭い変化球」だといえましょう。

☆ 解説

▲例文①は、「自分のことを棚に上げて、人のことをあれこれ言う」相手への返答として使われます。知的高等生物とはいえ、人間は自分のすべてを知ることは不可能。自分では見落としている盲点を相手が指摘するセリフが、この
“你不也是这样吗? Nǐ bù yě shì zhè-yàng ma?”
“呀 ya”“啊 a”から変形したもの。軽い疑問口調。我傻呀 wǒ shǎ ya「私って、頭が鈍いのかね」。“用”は動詞で、「(…することを)必要とする」の意味。
“添乱”は動詞で、「邪魔する」。“我正忙着呢,你这不是来添乱吗? Wǒ zhèng máng-zhe ne,nǐ zhè bú shì lái tiān-luàn ma?”などと応用展開することができる。

 疑問文が「直球」なら、反語文は「鋭い変化球」!
 ここで注目したいのが、反語文の構造的特徴です。多くの反語文は姿かたちが一見、一般疑問文(文末が
“…吗?”のタイプ)によく似ている。表記すると、やはり末尾に疑問符が付く。つまり、“…吗?”という姿で現れる。まるで双子みたいです。

 ところが、反語文は
“吗?”に代わって“?”又は“。”とも表記されるので、事はいささか厄介だ。なぜなら、文型の見極めが難しくなるからです。例文を挙げると、“你还不快点坐下吗?”あなたはまさか早く座りたくはないのではあるまい?→→早く座りたいに決まっていますよね。(だったら、立ったままではなく、さっさと座ったら)。この例文の文末“吗”が省略されて“你还不快点坐下?”と書いたり、“你还不快点坐下。”と表記されたりもする。なので、正攻法としては、やはり前後の文脈を辿りながら、単なる陳述文や疑問文なのか、それとも反語文なのかを見分ける選球眼が必要となる。

 ただ、反語文に目印がないわけではない。反問の語気を強めるために、副詞の
“难道 nán-dào”“还 hái”などがよく使われる。日本語の「まさか…(ではあるまい)」とか「よもや…(ではなかろう)」に相当する。なかでも、「何でも屋」の“还 hái”は曲者です。“还 hái”が「まさか…」の意味を持つなんて、「そんなの、まさか?」と思う人がきっと少なくないと想像しますが、一度辞書に当たってみるとよい。

 このほかに、疑問詞型疑問文(代表例が
“你是谁?”“这是什么?”“这是哪里?”“天安门广场怎么走?”)の流れを汲んで、反語文が“怎么会・・・?”“哪能・・・?”などの形式が採られることもある。例文を挙げると、

哪有这事? どこにこんな事がありましょうか?→→どこを探してもあり得ない話です。

这怎么可能呢? これがどうしてありえましょうか?→→こんなの、絶対あり得ない!

你问我,我问谁呢? 私に聞くのですか?では、私は誰に尋ねたらよいでしょうか?→→わかるはずがない私に、そんなことを聞かないでくださいよ。

 反語文は疑問形式をとりながら、実質は陳述文と同じく、文中に発話者自身の主張をすでに内包しているので、もはや自ら答えを示す必要はなく、あくまで聞き手に答えを言わせようと迫る構えだ。その意味において、
“反问句”は、ある種の攻撃性を具えている。この点を悪用して、「はったり」を言うときに使われることもある。

  一方、聞き手のほうは、相手の反語文に対する答えを出すために、思考活動を活発化させ、アタマの体操を強いられる。いわば、相手ピッチャーの投げてきた鋭い変化球をしっかりと打ち返す選球眼とワザが求められる。なので、反語文はある意味で、中国人の思弁能力の向上や「脳」力低下防止に貢献している、と言えなくもない。たしかに平叙文では表現し難いある種の強烈性、迫力、切れ味の鋭さが反語文の真骨頂です。反語文の持つこの特性は、中国人の表現習慣ないしは国民性にマッチしている。だからこそ、反語文はよく中国人の口に上るといえるのではないか、と思います。

 余談になりますが、先日日本の新聞を読んでいたら、第30話で話題に取り上げた「天─地─人」式思考パターンを採っていると私が思う一首の短歌にめぐり合えました。日本の某大学が年初に発表した「2015年・現代学生百人一首」に堂々と入選した短歌をここに紹介しておきます。<御嶽山噴火で気付く当たり前人も地球も生きていること>。
(次回に続く)